ロスレス・ローカライズは可能か?


こないだ、テレビ東京でやってた CSI を見た。
今シーズンはラスベガスらしい。

磔にされた女性の死体が教会で見つかったが、何やら神父も周辺人物も色々怪しげ...という設定だったのだけれど、さすがに人気シリーズということもあってか見ているほうも次第に惹きこまれていく。
でもふっと我に返って思い浮かんだことがある。俺、この設定分かった気になってるけど、本当に、本当に分かっているのかなって。

  • 現代のアメリカ合衆国において「敬虔なクリスチャンである」ということがどういうことなのか
  • 現代のアメリカの、特にラスベガスにおける教会の社会的位置はどんな風なのか?
  • そもそも「ベガスの教会で殺人事件が起きてなんか神父があやしい」という設定自体、どの程度のリアリティがあるのか

なんてある程度想像できても手元には一切リアルな材料がない。そもそも僕アメリカ行った事ない...(僕の英語は豪州仕込みです)

でも一方で、先進国の社会のゆがみや、聖職者だからっていい人とは限らないとか、そういうことは日本に住んでいても想像し、また理解できるから話は楽しめる。



でも愕然とした。
とっても人気のある犯罪調査系ドラマで、見ていてぐぐぐっと話に惹きこまれるというのに、自分とアメリカ人ではそこから感じ取れる情報が結構違いそうだぞということに愕然とした。

吹き替え翻訳もとても美しく、翻訳クサさや原文を透けさせるようなところのない素敵な仕上がりだ。ローカライズと呼ばれる処理も言い回しや用語の使い分けレベルでしっかり行われている。

でも、きっとアメリカ人と同じような印象を受けながらこのドラマを見るには最初に30分以上は文化、経緯、現状(たとえば、上に箇条書きした3つについてなど)を説明する必要があるだろう。
日本の視聴者のきっと90%以上はそんなもの見たくないだろうけれど。

じゃあ映像系のローカライズって何なんだろうか。
「映像の長さは原作ママ」、「脚注は本当に必要な場合か、視聴者のターゲット層が「説明」"も" 求めている人たちに限定されているときだけ使う*1」、「セリフの長さは原文の尺にあわせないとだめ」という制約はあるよね。

でもそうすると、どうしてもそこには失われるものが出てくる。どんな翻訳でも何かは失われるし、翻訳者はその LOSS をできるだけ少なくすることこそが仕事だと思っている(少なくとも自分はそう思っている)。そして当たり前だけど、お堅い文書やドキュメンタリーよりもエンターテインメント側のマテリアルのほうが LOSS 幅は大きくなる。それは時として致命的なほどに大きい。

「アメリカンジョークはおもしろくない」というのも*2、文化と言語、語彙的な違い、そしてジョークが社会で果たす/果たしてきた役割の違い*3、その時代に人種・民族間に漂う微妙な雰囲気、その当時その文化圏で誰もが心配していること、その他諸々ひっくるめて紡ぎだされているものだったりするわけで、それを言葉だけ移し変えたところで僕らが楽しめるはずない。


結論:文化的相互理解なしにはロスレス通信は実現できねえ

もっと他国のことを知り、もっと他国に日本のことを知ってもらわないとこの「ロス率」は永遠に変わっていかないだろうから、とりあえず興味と疑問を持つことを恐れないようにしよう。
そして自分としては、愛ある仕事を通じて、お互いをリスペクトするムーブメントをもっともっと生み出す土壌を作れるように、できることをやろう。自分の能力に見合った目標に向けて、継続的に(コレ超大事、Otherwise 心身壊す)。まあ、それが実現するより先に脳に直接情報送れるようになるかもしれないけれど。

そうしているうちに、新しい選択肢が出てくるかもしれないし、きっとそのときにはソレまでの試みが多少なり役に立つはず。別に立たなくてもいいけど。
ただ自分は、誰かが血を吐く思いで作ったものが穴だらけにされたり、趣味じゃないフリルをつけて売られたり、そしてそれがローカライズですと言われたりするのが本当に嫌いなのだ。
文字通り病気になるくらい嫌いなんだ。





---独り言---
ああ、今思った。オリジナルの製作者と現地語版のマネージャーが、「その作品を通じてそれぞれの国で何を示したいのか」っていうビジョンを共有したうえで、納得して、協力しながら仕事を進める環境があるかどうか。それは作品の完成度だけじゃなくローカライズ職に就いている人のモチベーションにも大きく影響するだろうな。
僕はそれで今悩んでんのかもしんないな。

*1:YouTubeあたりで日本のアニメ探すとスペイン語字幕ついていたりするけれど、本当に頻繁に脚注が入る

*2:最近はその直訳調のおもしろく"なさ" とわざとらしさを面白がることもあるけれど

*3:日本ではジョークはある種の芸、欧米ではジョークはウィットを楽しむための会話の潤滑油という印象