評価も感動も個人的な枠の中で

今もしものっそい難解な詩 (ポエム) が世界的に流行したら、すぐに分析 WIKI がニョキニョキできて、詩の解釈について 2, 3 主流派ができて、落ち着いた頃に見にきた人たちがそれらを眺めていい感じの着地点を導き出して大体わかった感じになったりするんじゃないかと妄想してしまう。事件の報道をたくさん斜め読みして全体像を把握するみたいに。
勝手に妄想しておいてそれに意見するのも無意味だけれど、僕は芸術もエンターテイメントも、もっと個人的な体験なんじゃないか? と思う。

何というか、「最大公約数を用意」しにいく、あるいは「安牌を切る」みたいに自分の立ち位置を決める人が増えた気がする (自戒も込めて。うっかりすると安牌に手が伸びてる自分に気付くというか)。
自分から楽しみに行く姿勢と、他人がどう取ろうが俺はこう感じた、と思える姿勢がいるのかな。
ゲーム遊ぶときに一周目は攻略WIKIを見ないのもある種楽しみにいく姿勢と言えるのかもしれない。

個人が趣味の時間にあそぶとき、相対的に見て技法が優れているだとか、そういうケチくさいこと言わないでただ感じて、楽しんだものが勝ち、っていう空気もう少し出ないかな。ああ、俺はゲハ戦争について書いているのか? わからない。
自分のついったー TL にはそういう人ばかりがいるので、自分が楽しめなかったゲームについて面白え! と感想を述べていても、なるほど、それにしても楽しそうだなと素直にいい気分になれる。

多様性を許容する、同調圧力の存在をハナから気にかけない。
すげえと思ったら褒めちぎり、つまんなかったらつまんないと言い、他人と意見が違ってもなるほどそういう捉え方をする人もいるのだな、と納得する、そういう風でありたい。