和洋 Dev がそれぞれ得意な事について思ったこと

自分の Twitter まとめなど


  • 洋ゲーの荒々しさ、未完成さというのは、「全体として作りたいものができるのなら中身にいくらか荒いところがあっても許容する」姿勢にあると思う。対して和ゲーは「最初にゲームの大きさを決めて (または技術的な限界があって) その中をきっちり、隙間無く埋めていく」という姿勢のような。
  • ファミコン時代に日本がすごかったのはハードウェア的にゲームでできることのサイズが決まっていたから、中身をきっちり詰めていくことに長けたところが良い方向に働き、逆に洋ゲーは大きさが限定されていたからこそ雑さだけが目立ってしまったとか?もちろんなんとなくであって、例外もたくさんあるのは承知しているけど。
  • 例えば、Fallout3のNPCの態度が時々シュールなほど豹変するのとかは、日本の開発会社だったら「品質問題」と認識していたような気がする。
  • #でも個人的には「そんなんどうでもいいから、Fallout3 という世界観をできるだけ広げた」ことがあのゲームのおもしろさのひとつだと思ってる。
  • 日本メーカーが PSP と DS のソフト (それから最近のPS2) が得意というのはそういう「この大きさでこの制限付きで、とっておきのやつ作ってくれ」ってのが得意だからってのもあるのかなあ?
  • 前に読んだ本の中で、故 河合ハヤオ氏が言っていたこと「日本の学校では、個性を伸ばしましょう、と教室に標語が貼ってあって、クラス一丸となって "みんなで個性を伸ばそう" なんて風にやってたりする。でも「"アメリカではそんなこといわないんですよ" というとすごくビックリされる。あっちではみんな教えてもらわなくても分かってるからなんですけどね」みたいなことを言っていたけど、「個性」だけじゃなく「自由」についての捉え方にも一種通じるところがあるような。まとまらないけどそんな風に思った。

などと漠然と書いていたら、nantka さんから reply をもらう。


  • 確かに洋げーにある未完成さ・荒さ的なものありますね。
  • それはアメリカ社会全体にも言えていて、会社でも学校でもプロジェクトの進め方でもなんでも、どこかしら粗っぽくて、細部が詰めてなくて、未完成で、洗練されてないようなところがあります。日本は細かなところもきっちりする印象。
  • 荒っぽさ・未完成さ的なパターンをとるメリットは何かっていうと、一つには、エラーに対する寛容さがあってそこで創造的な自由度が高くなる感じが。そうすると駄作も沢山あるけど、イージーな感じでトライされて数が増えるから、ときどきとんでもない光るものが出てくるという。
  • でエラーや荒さに対する寛容が、プロジェクト開始の最初の閾値とか、人とのつながり構築のスピードとか、ブレーンストーミング的な態度とか、変わったアイデアとかにつながって、いいものが出てくる。
  • で、そういう莫大なエラーの上にうかぶ上質な上澄みの人材を集めたような会社がblizzとかvalveとかそういうのになって、全体を通してみるとすごい組織が5つくらいできて、世界をリードしてしまうというパターンがあるような。だから、そういったゆるさが創造性だけでなく、最終的には洗練にもつながり、上質なものができるという。
  • 携帯とか旧据え置きで日本が強いのは、たしかにそういう理由だとおもいます。箱庭の大きさが小さいので、そうした自由度が比較的低いシステムできっちり作ろうとすると、逆に日本的なミスのすくないきっちりとした物作りの才能が光るような。たしかにこれ面白い現象。


なるほど。Twitter はおもしれえなあ。ぼそっと言っただけの独り言に誰かが素敵な補足をしてくれる。そして僕は毎度のコトながら、自分の考えをうまく言語化できる人がうらやましい。