アニメの視聴スタイルから見る「コンテンツ消費時の視点の違い」

**注意: 独自研究・独自の考察しかありません。そういうのが苦手な方はスルー推奨です。

こないだから時折、YoutubeなどでアニメのMADとかをちょいちょい見ているんですが、そのへんの動画ってだいたいMAD元ネタの海外ファンが色々とコメントをつけているんですね。それをザーッと読んでいて、今まで自分が感じていた違和感みたいなものを説明する、「あ、こういうことか」と思える仮説が思いついたのでメモ程度に書いてみます。

マクロスFランカ・リーと親戚のおじさん目線

https://twitter.com/#!/lye_/status/190573987884052480

昨日ようつべでマクロスFのMAD 見てたら、海外の人たちが「ランカはもっと幸せになるべき she deserves better 」とか「その通りだ、あんな一時の感情でフラフラするやつにはもったいない」とかいってて、完全に親戚の叔父さんで面白かった

コレ書いた後思い至ったんですが、日本で比較的多くのアニメ好きな人(以下、「アニメ視聴者(日)」)が持っている「テレビの前で物語を見ていく」感じ、例えば「今週は○○ちゃんここで出たか」とか「今週はサービス回だったね」とか、「お約束www」みたいな反応って、海外のアニメファン(以下、「アニメ視聴者(海)」)、特に「僕の観測範囲内」には全然見られないんですよね。仕事柄海外のアニメファンの意見を千単位で読んでますが、ほとんど見たことがない。


この差は最初、アニメの社会的立ち位置 (日本のほうがまだアニメ見てても大丈夫な空気があると思う) とか視聴環境の違い(テレビじゃなくてDVDじゃなくてネット) とかのせいなのかなと思っていたんですけど、どうもこれ、「どうやって物語を見ているかが全然違くないか?」と思うのです。

コマ視点でボードを見るって?

もうここは僕のチラ裏みたいなもんなので検証もソースもへったくれももんじゃ焼きもなく、印象だけ話しますが、「彼らはどうも、物語の中に入って体験している」気がしてならないのです。乱暴に言えば、ボードゲームを遊ぶ時、アニメ視聴者(日)はコマを上から見下ろしている目線であるのに対し、アニメ視聴者(海)は「コマから見える景色」で話している気がする。だから「ランカはもっと幸せになるべき」とか、親戚のおじさんみたいな親身になって彼女を思いやるようなセリフが出てくるんじゃないかと。日本語でこれやるとちょっと現実と特別がついてなくて怖い人みたいになっちゃうと思うんですが(親が泣くと思う)、彼らは実にナチュラルにそれをしている気がする。当然本当に彼らが怖い人である可能性も捨て切れないわけですが、とにかくまあ、それは置いておいて。

そんでこれ以降では、さらに適当な事を書きなぐるために上のオレオレ仮説をゲームの遊ばれ方にまで適用しちまいます。

「ゲーム体験」の概念がうまく浸透しないのって?

仕事柄、会議のなんちゃって通訳していて困る表現に「Game Experience (ゲーム体験)」とか「Exloration Feel (探索・冒険感)」みたいな体験、感覚の単語があります。特にゲーム体験についてはそれなりに理解している方が多いと思うのですが、具体的な話をしていく上で「十全に」理解できていないケースがとても多い (だからうまく通訳できず凹みます)。

思うにそれって、知らず知らず「ボードを見下ろす」視点で「コマの視点で体験する」ゲームエクスペリエンスを理解しようとしているからではないだろうか? と考えるわけです。

ビジョンの浸透を根っこで邪魔してない?

彼らの Expectations (期待するもの、当然予期するもの) が一貫してブレることなく「コンテンツを消費するときは常にコマの視点でボードを見ている」ことを基礎土台にしているとしたら、開発チームの全員がそいつの首根っこをしっかりつかむことこそが正しいビジョンを共有する上で必要不可欠なことなんじゃないかなと。

特に日本でだけ売るゲームを作り続けてはいられないコンソールタイトルの開発においては、西洋のゲームからある程度の要素を学び取りながら物を作る必要に迫られ(主要なものだとプレイバリュー、ゲームエクスペリエンス、ビジョンホルダーなどの概念)、だからこそビジョンの浸透を土台部分でブレさせてしまう要素なんて早急にぶっ潰しておかねえとヤバイよと思うわけでございます。

とりあえず自分自身の教訓としては「お前ちゃんとコマ視点でボード見て話ししてるか?」を定期的に自問していこうということで、チラ裏の〆とさせていただきます。